多様性(ダイバーシティ)、よく耳にする言葉です。多様性のある社会、生物多様性、文化的多様性、多様性を認めよう!・・・などなど。
なんとなく大切な価値観であるのはわかりますが、何がどう大切なのか、よくわからない言葉でもあります。いくつか辞書を引いてみると「いろいろな種類があること」という解説がされています。
ですがそれ以上のことは書かれておらず、実際にどういった価値があるのか、やはりよくわかりません。
しかし、多様性の正体は知れば知るほど奥が深く、ときに希望に満ち、ときに残酷で、この世界のすべてを支配しているといっても過言ではない存在のようです。
多様性とは、そしてその価値とはいったい何なのか、以下の点について見ていきたいと思います。
①多様性の力
②様性のダークサイド
③すべては多様性の上に成り立っている
④多様性に対する誤解
①多様性の力
多様性(ダイバーシティ)の価値として広く認められているのは、多様性を尊重することでよりよい社会が実現する、つまり多様性には社会を発展させるほどの力がある、ということではないでしょうか。
それは個の力のようにわかりやすいものではなく、集団として全体を押し上げるような力であり、以下のような形で私たちの社会に影響をあたえています。
十人十色の力
多様性と似た表現に、十人十色(じゅうにんといろ)という言葉があります。
十人十色とは、人はそれぞれ考え方や性質がちがう、すなわち人にはみんな違った個性がある、という意味です。
もちろん10人にかぎらず、100人いれば100人、100万人いれば100万人、世界人口70億人であれば70億人それぞれに違った個性があります。
まさに人間的な多様性、そしてこの十人十色には力があります。
十人十色の力は、子供の社会から大人の社会までさまざまな場所に作用しますが、ここでは学校の1クラス30人の多様性について考えてみます。
クラスの中を見渡せば、運動の得意な子や勉強が得意な子、おしゃべりが上手な子や絵を描くのがうまい子、または得意なわけではないけれど単に好きな子や逆に苦手な子、嫌いな子もいるでしょう。
さらには大勢で遊ぶのが好きな子や一人でいるのが好きな子、仲間思いの子や自分勝手な子、責任感の強い子や無責任な子、そしてそのあいだにいる子供たち、といった具合に、たった30人のクラスの中にもたくさんの個性が存在しています。
だからこそクラスが成立します。クラスの発表会では責任感のある子がみんなをまとめるでしょうし、スポーツの対抗戦では運動の得意な子が活躍するでしょう。
文化祭ではアイディアのある子、デザイン力のある子、実行力のある子や雰囲気を盛り上げる子、意見はなくともクラスのためにまじめに作業をする子、などなど多くの個性が必要になります。
みんな得意不得意がありすべてを実行できる人間など存在しません。目立つ子も目立たない子も、それぞれが役割を果たしています。
まさしく十人十色の力です。
成長をもたらす力
十人十色の力が働くことで物事を前に進められる、多様性にはそんな力があります。しかしこれは多様性の力の一つの面にすぎません。
多様性の力がより発揮されるのは、さまざまな個性がぶつかってドラマが発生し、人を成長させることです。
文化祭の例で見たような、クラス全員がきれいにまとまる形はもちろんありますが、現実に見れば話はもっと複雑なはずです。
決まらないテーマ、かみ合わないビジョン、雑用は他人まかせでいいとこ取りを狙う子、クラスの輪を乱してしまう子、そもそも文化祭に興味がない子もいるでしょう。
多様な個性はたがいに影響し合い、一人一人に違った問題が提起され、それぞれにとって必要な行動がうながされます。
協力、協調、妥協、反発、対立、決裂、傍観、孤立、成功や失敗、そもそも起こる問題や結果自体が多様です。
それを経験し、自分なりの答えをだす過程で人は少しずつ成長していきます。
さまざまな問題を乗り越えてクラスをまとめることに成功した生徒は、その外交的な特性を伸ばして将来なにかの組織を引っ張っていく存在になるかもしれませんし、
まわりと協力する作業が苦手であると知った内向的な生徒は、個人として力を発揮できる生き方を探すかもしれません。
どちらが良い悪いの問題ではありません。
外交的な人は生涯年収が高くて人望もあり幸運に恵まれやすい、そんな幸せな人生を送る傾向が見られる一方で、自分だけの時間をつくるのが難しくなります。
内向的な人は友達が少ないかわりに自分だけの時間がたっぷりあります。
その時間を遊びではなく努力に使えば、自分が目指した分野のエキスパート、いわゆるプロ中のプロとよばれる存在として、たとえばアスリートや研究者、はたまた実業家として成功する可能性が高まります。
どのクラスにも一人はいる明るく元気でみんなから好かれる子も、友達づくりが苦手でクラスの中で浮いてしまう根暗な子も、社会にとって必要な存在です。
そんな極端な例ではなくても、多くの生徒にとって社会の中で生きていくための方法が、人とのかかわりの中で知らず知らずのうちに蓄積されていき、それが行動に反映され、また影響し合うということを繰り返します。
そうして数えあげればキリがないくらいの、多様な個人の成長がもたらされます(成長のしかた自体も人それぞれ多様です)。
そうして成長した多様な個人はさらに複雑にからみ合い、より個性豊かな多様性を生みだしていきます。
クラスの中に同じ考えや同じ能力をもつ同質の個性しか存在しないとしたら、事件や争いが起こらない平和なクラスになるかもしれませんが、そこに人を成長させる多様性の力は存在しないでしょう。
個性を形成する力
多様性によってもたらされる成長の機会は小学校から高校までざっと全国3万5000校、40万クラス、1300万人(政府統計学校基本調査令和元年参照)の間に、そして社会にでれば無数にある人と人との出会いの中にもたらされます。
どの個性とどの個性が結びつくかは完全にランダムですが、だからこそ多様な個性が影響し合い、さらに複雑な個性が形成されていきます。
だれもがだれかの影響を受けて考えや行動に変化がもたらされた経験があるでしょうし、私たち一人一人の行動もまた、必ずだれかに何かしらの影響をあたえています。
見かけ上の目立つ個性から地味な個性、直接人の役に立つ個性から反社会的な個性、ありとあらゆる相反する個性と、その間のさまざまな地点に位置するたくさんの個性、どれもが互いに影響し合う多様性の中で形成された唯一無二の個性です。
もしも私たちの過ごした学校のクラスが1学年ずれたり、1クラスずれたりしていたら、今とはずいぶんと違った自分になっていたかもしれません。
1章まとめ
だれもが経験する学校のクラスの中での出来事を例に見てきましたが、十人十色での助け合いや個人の成長、個性の形成に必要不可欠な多様性の力はすべての場所にみられます。
学校を卒業すれば人々は社会にでて仕事に就きます。そして世の中にある仕事はまさに多種多様です。
一体どれだけの数の仕事があるのかはわかりませんが、それぞれの仕事場で多様な個人は協力して何かを成し、影響し合うことで成長がもたらされ、さらに複雑で豊かな個性が形づくられていきます。
だからといって多様性の力は個人の幸福や成功と直接結び付くわけではありません。
逆に不幸や挫折をもたらすことも多々あります。
多様な個性があるからこそイジメや争い、破壊や混乱がもたらされるのも事実です。
しかし多様であるからこそ、問題を疑問視する個性も同時に存在し、その中で実際に問題を克服する個性があらわれます。
現に社会はさまざまな問題をかかえながらも、全体としてみれば人々の暮らしをよりよいものにし、豊かな生活を提供してくれています。
日本に住んでいると実感しにくいですが、各家庭で電気・水道・ガスを使え、街にでれば道路はきれいに整備されていて、公共交通機関が張り巡らされているため交通の便がよく、治安維持や災害救助のための強固な公的機関が存在し、
子供が教育を受けられる環境も整っており、さまざまな職業の選択が可能で、旅行をしようと思えば日本各地どころか飛行機に乗って世界中どこへでも行ける、
という環境は決して当たり前ではなく、人類史上はじまって以来の豊かさです。こういった社会が豊かになる傾向は世界規模で見られます。
これはとても不思議なことです。
人類が発展しなければならない明確な理由はどこにもありませんし、実際に発展を阻害する要因はいたるところにあるのに、人類は誕生以来約20万年かけて発展し続けてきました。
それにはさまざまな要因がありますが、その一つとして十人十色や個人を成長させ個性を形成する多様性の力が働いているのはたしかでしょう。
多様性には価値があるのです。
内向型人間のすごい力-静かな人が世界を変える(講談社+α文庫)
FACTFULNESS(ファクトフルネス):10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
②多様性のダークサイド
前章では、多様性(ダイバーシティ)には人や社会を成長させる力がある、という多様性の良い面を見てきました。
これは間違いなく多様性の一つの価値であり、こういう認識は広く認められているのもたしかだと思われます。
ですがこの章では見方を変えて、多様性のダークサイド(暗黒面)にスポットを当てていきます。
そもそも「多様性」は「いろいろな種類があること」を意味する言葉であり「良いという一つの面」しかないはずがありません。
多様性は残酷な「悪の一面」をもち合わせています。
それでも、多様性の価値は決して損なわれないのがすごいところです。
〇人は「ヘン」なものに反応する
〇多様性は過酷な試練をあたえてくる
〇多様性は反社会的な性質を内包する
人は「ヘン」なものに反応する
人はヘンなもの、変わったものに反応します。その反応は、ヘンの度合いが平均的なものから離れていればいるほど強くなります。
たとえば見た目です。
そもそも人は人を見た目で判断してしまいますが、平均的な容姿と違ったものに反応してしまうことは、だれにでも経験があると思います。
見た目が「キレイ」「カワイイ」「カッコイイ」「スマート」のように魅力ある場合でも、「ブサイク」「デブ」のようにそれだけでは魅力があるといえない場合でも、意識は平均的なものと比べて過剰に反応してしまいます。
また「運動神経がよい」「運度神経がわるい」、「頭がよい」「頭がわるい」、「歌がうまい」「歌がへた」、などなど平均から離れたあらゆるものに対して、私たちはどうしても反応してしまうものです。
それぞれがその人なりの個性ですが、私たちは無意識に「よい」「わるい」の判断をしてしまい、そして「わるい」と判断したものに対しては「ヘン」というレッテルを貼ります。
しかし、平均的でないものを変わっているものとして純粋にとらえるならば、一般的に「よい」とされているものも「ヘン」なものです。
そもそも「よい」「わるい」は人の主観による評価であり、そのもの自体に「良い」「悪い」はありません。
人にはみんな「ヘン」な一面があり、すべての性質が平均的な人間は存在しないでしょう。それでも私たちは自分が「ヘン」だとは思わず、自分はいたって「ふつう」だと思うものです。
その感覚は間違っていません。
みんなそれぞれが「ヘン」であるならば、「ヘン」であることはいたって「ふつう」のことです。
そして、この「ヘン」なものこそが多様性をささえています。
「見た目がよい人」しかいない世界に「見た目がよい人」は存在しなくなりますし、「見た目がわるい人」しかいない世界に「見た目がわるい人」は存在しなくなります(そんな世界ではだれもが「ふつう」の見た目になります)。
多様な存在が、世の中の見え方を豊かにしてくれているのです。
しかし、多様であるからこそ人が主観的に「わるい」と判断してしまうことがあるかぎり、多様であるからみんな幸せ、という単純な話で終わらないのが多様性の残酷なところです。
多様性は過酷な試練をあたえてくる
多様であるからこそ平均から離れたあらゆるものが存在し、人は主観によって「よい」「わるい」を無意識に評価しています。
そして、「わるい」意味で「ヘン」と評価されたものはどうしても、からかい、いじめ、仲間外れ、無視、妨害、暴力、誹謗や中傷といったさまざまな被害にあいやすくなる可能性を否定できません。
この種のリスクは子供から大人まですべての人が負っています。
このように多様性は個々人に対して試練をあたえてきます。その試練に対して人はときに耐え、ときに乗りこえ、ときにくじけながらも成長していきます。
とくに、成長段階にある子供たちが集う学校でのいじめはよく問題になります。
学校という閉鎖的な環境の中で過酷なのは、友達づくりが苦手でクラスの中で浮いてしまう内向的な生徒が、前節で見た「わるい」意味で「ヘン」と見られてしまうような性質をもっている場合です。
こういった生徒たちは社会にでれば素晴らしい能力を発揮する可能性を秘めていますが、学校の中ではいじめにあいやすくなります。
一方で、人から「よい」評価をされる人がいじめのような被害にあうこともめずらしくありません。
容姿がよい人や頭がよい人などの「よい」性質に対して、他者がもつ嫉妬の感情は思いのほか強いものです。
他人をうらやみ憎む者にとって、対象の「よい」ところは「わるい」ところに変換されます。
どういうケースにしろ、最悪はいじめによって自殺に追いこまれてしまうこともあり、そういったニュースを見ると本当に悲しい気持ちになります。
それでも多くの場合、そういった状況はいずれ解消します。
自分で乗りこえたり、人の助けを借りたり、時間が解決してくれたり、方法はさまざまですが、その経験から何かを得る人もいます。
何かに耐えきるというのは、それが苦しければ苦しいほど、人を強くしてくれる可能性もあるのです。
社会的に成功し、認められている人たちのエピソードには、「いじめられたことがある」という話が割とよくでてきます。
いじめを受けたことがその人にどんな影響をもたらしたかはわかりませんが、もしも成長に繋がる部分があったのなら、いじめられたことにも何か意味があったのかもしれません。
もちろんその裏に多くのつらく悲しい結末が隠れていることは間違いありません。
何にせよ、多様性は私たちの苦労などお構いなしに、人々にさまざまな違いを生みだし、それゆえに私たちの評価を分けさせ、残酷なまでに過酷な試練をあたえてきます。
それにどう対処するかはその人にゆだねられます。まったくもって多様性とは無責任なものです。
しかし、それこそが多様性です。
むしろ多様性は、いじめなどの問題に心を悩ませる人を用意する一方で、いじめを楽しいと感じたり、他人がどうなろうが知ったことではないと考えたりする人間もきっちり用意してくれています。
いじめの構造-なぜ人が怪物になるのか(講談社現代新書)
いじめを生む教室-子どもを守るために知っておきたいデータと知識(PHP新書)
多様性は反社会的な性質も内包する
世の中に善なる者しか存在しないとしたら、私たちはどれほど安心して、そしてどれほど豊かに生活できるでしょうか。
だれしもこのような理想の世界を思い描いたことはあるかと思います。
しかしご存じのとおり、この世には悪なる者が存在します。なにしろこの世界は多様性に満ちています。
そもそも「善」と「悪」とは何なのでしょうか。じつは学問的な一つの答えはでていません。それこそ多種多様な善と悪に対する考え方があります。
しかし、ここでは「悪」=「反社会的な性質」として話を進めていきます。反社会的な性質とは、社会の秩序をみだし私たちの生活に害をあたえるような性質を意味します。
私たちの中にある反社会的な側面
世の中には他人をいじめる人や、侮辱する人、誹謗中傷する人、暴言を吐く人、暴力をふるう人、騙し脅して利用する人、盗みや詐欺をする人、強盗・誘拐・殺人を犯す人、自分のことだけ考えて周囲に害をまきちらす人、
などなど軽微なものから罪に問われるレベルのものまで、さまざまな反社会的な行動をとる人たちが存在しています。
普段は良識をもって生活をしている人でも、何かのはずみや感情に任せた勢い、集団の同調圧力、欲や酒におぼれ理性をうしなった結果、またいわゆる魔が差した状態になったために反社会的な行動をとってしまうことがあります。
反社会的な行動をした、つまり悪いことをしてしまった自覚があればその後の行動に注意できますが、残念ながら人は自分がやったことを正当化してしまうもので、その場合反社会的な行動は繰り返されます。
さらに被害にあった側に「やられたらやり返す」という心理が働き、しかも自分がやられた相手にやり返すのが難しい場合には、自分より弱そうに見える第三者に対して行動をおこすことがあるため、被害は拡大していきます。
これは意識してそうしているわけではなく、被害にあったがためにストレスを抱え、無意識に他人に害をなす行動をとってしまうことが大半かもしれません。
こういった行動は他人に害をあたえる点で反社会的な性質をもっていますが、つねにどこかでおこなわれているのが現実です。
世の中には完全な善人も完全な悪人も存在しないでしょうから、こういった性質は大なり小なり私たちすべての人間の中に入りこんでいることになります。
言い換えれば、多様性があるからこそ、社会の中にも個人の中にもその一部として、反社会的な性質も育まれていきます。
それでも多くの人は善人であろうとし、社会的な平和を望み、自らの行動に注意を払うものですが、世の中には誠実さや他人を思いやる心が少しもないような、どうにもおかしい、理解できない、と思われる人間が存在するのも事実です。
それには人の脳の使い方、その多様性がかかわっています。
とくに、人には他者に共感する能力がありますが、その共感する能力の違いが人の善悪に関する行動の違いに関係しているようです。
反社会的性質と共感能力
人に共感する能力にはいくつかの種類とレベルがありますが、ここではシンプルに他者の立場に立ったりドラマや映画をみたりして、喜び笑い、悲しみ涙する能力、他者の感情に共鳴する能力と考えます。
これは全生物の中で人間が特異的に発達させてきた能力の一つです。
この能力のおかげで人は利己的(自分だけの利益を考える・身勝手)なだけでなく、利他的(他者の利益のために行動する、自分を犠牲にしてでも他者を助ける)な行動がとれるようになり、社会を発展させてきました。
しかし、この共感する能力には人によって強弱があることがわかっています。
ちょっとしたエピソードを聞いただけで涙を流す人から、多くの人が心を震わせ涙を流す物語を聞いても「だからどうした」とまったく共感を示さない人まで幅広く存在しています。
他人に共感する能力が弱い、またはまったく無い人たちにとって、反社会的な行動が悪いことであると認識するのは非常に難しいことです。
なぜなら人の気持ちがわからないため、他人が自分の行動に迷惑しているということをなかなか感情的に理解できないからです。また人のために行動することもめったにありません。
共感の力が弱いために、利他的に行動するための動機がなかなか得られず(利他的に行動するには、他者の喜びや悲しみを理解する共感の力が重要)、つねに利己的な行動をとってしまいます。
つまり自分の損得を考えずに他者に対して手を差し伸べる意味を理解できないため、自分のことだけを考えて行動するのは当たり前で、悪いことではありません。
そして共感性のない、ただわがままなだけの利己的な行動は、他人に害をあたえる反社会的な性質をおびてしまいます。
このタイプの人たちが利他的に見える行動をとることもありますが、それは自分の利益になる場合のみであり、たとえばグループや職場の実力者に対しては従順な態度を示し、好意を向ける異性に対しては非常に優しい一面を見せたりします。
ですが自分にとって相手の利用価値がなくなったとき、あっさりと切り捨てることに何のためらいもありません。
(共感の能力は歳を重ねるとともに発達していくため、子供や若者のわがままはある程度当然のことであり別の問題ですが、それでも個人間での差はあり、その差は遺伝的なものから家庭、社会の環境などさまざまな要素と関係しています)
個人の特性の中で反社会的な性質が占める割合が大きい人は、いつかは周囲から拒絶されるため、安定した社会生活を送るのが困難なものですが、なかには非共感的な能力を活かして社会で活躍している人たちも数多く存在しています。
他人の感情に共感できずとも、何をすれば罪となりどこまでは罪とならない、ということさえ理解していれば少なくとも法によって裁かれませんし、
現在の経済の形として主流である資本主義においてはお金をかせぐ力が重視され、人を思いやる心を置き去りにしたほうがそこそこ大きな成功を収められる可能性もあるからです。
以上のように反社会的な性質はいろいろな形で、当然のごとく多様性の一部として存在しています。その結果、世の中に憎しみや争いが絶えることはありません。
反社会的な性質をどれだけ感情的に否定してみても、私たち一人一人の中にある「悪」の部分を消すことすら難しそうですし、それが社会全体でとなればなおさらです。
しかし、多様性は利己的で反社会的な性質を内包する一方で、その反対の性質、利他的で向社会的(こうしゃかいてき)な性質も内包しています。
向社会的な性質とは、利他的な行動をとれること、つまり自分の利益を考えずに他者に対して手を差し伸べられる性質です。
反社会的性質と向社会的性質
反社会的性質が世の中に害をあたえるのに対し、向社会的な性質は世の中に救いをもたらします。
向社会的な性質は、他者に対する親切や支援、援助、ボランティアといった形で社会を支えてくれているのです。
これは多くの人たちの賛同をえる行為であり、たくさんの協力をえる結果、社会を支える大きな力となります。
ニュースなどを見ていると悲惨な事件ばかりが取り上げられていますが、世界中のあちこちで、個人間の小さな親切から、国家規模の大プロジェクトまで、人を助けるための活動はどこかで必ずおこなわれています(反社会的な性質は向社会的な性質の中にまぎれこんだり、向社会的な性質をよそおっていたりすることも多くその点は注意が必要です)。
ややこしのは、信念に従い自分の道を突き進む人が周囲を巻きこんで行動している場合です。
このタイプの人たちはまわりに迷惑をかけることも多々あり、自己中心的な人間にも見えますが、そこに他人を利用してやろうという反社会的な意図はなく、むしろ人の役に立とうという向社会的な思考をしています。
強い共感の能力をもっていることもあり、不思議と他者からの信頼を集めます。
それとは逆に反社会的な行動をとる人は、他人を利用することや自分一人が認められることを第一に考えています。
他人の感情を気にせずつねに堂々としてるため、一見すると魅力的に見えることが多いものの、その人をよく知る人ほどその人を信用していません(だまされている人はたくさんいます)。
2章まとめ
反社会的な性質と向社会的な性質は、社会の中にも個人の中にも大なり小なり含まれています。
大事なのはバランスです。
今日まで人類が発展してきた事実から、社会には向社会的な性質が占める割合が多いはずだと期待し、今後もそのバランスを変えないために、多様性のダークサイドに落ちてしまわないよう気をつけたいものです。
この章では「多様性のダークサイド」として多様性の残酷な一面を見てきましたが、結局は多様性に「善」も「悪」もありません。ただただ違いがあるだけです。
そういった違いがあるからこそ生みだされるものの上に、私たちの社会は成り立っています。
パーソナリティ障害がわかる本:「障害」を「個性」に変えるために(ちくま文庫)
サイコパス(文春新書)
③すべては多様性の上に成り立っている
多様性(ダイバーシティ)は人のさまざまな個性そのものです。その個性が集まることで、より多様性に富んだ人の社会が形成されています。
そして人の個性に影響をあたえ、社会の多様性を形づくる要因はいくつもあります。性別、年齢、人種、国家、民族、文化、宗教、などなど社会はまさに多様性の上に成り立っています。
しかし、多様性の上に成り立っているのは何も人間社会だけではありません。むしろ人の社会すら、さらに大きな多様性のごく一部にすぎないのです。
この章ではどこまでも多様性にあふれた世界、そしてその多様性に支えられている世界の姿を見ていきたいと思います。
生物の多様性
地球には多種多様な生物がいます。
ヒト・イヌ・ネコ・ハト・スズメ・トカゲ・ヘビ・カエル・イモリ・マグロ・サメ・イカ・タコ・ウニ・ヒトデ・アリ・チョウ・クモ…いくらでも数えられます。
その多様な生物たちは山や川や海、サバンナの大草原や熱帯地方のジャングル、砂漠や空、多様な環境の中の多様な場所に生息しています。
生物というと、ヒトを含めた哺乳類や鳥類、魚類、昆虫類などを思い浮かべますが、そこには植物も含まれますし、細菌(バクテリア)などの単細胞生物も含まれます。
現在発見されている生物種の数は約190万種、未発見のものを含めると500万~3000万種もの生物が存在しているといわれています。
種の数での主役は昆虫です。昆虫は動物種の約3/4を占めており、わかっているでだけで約100万種が存在します。
対してヒトは現生人類である私たちホモ・サピエンスただ1種しか存在していません(人種や民族のことが話題になりますが生物学的には同種です)。
その他のヒトである北京原人やネアンデルタール人はもう残っていません。ただ1種だけのヒトの社会がこれほど多様であるというのに、生物全体の多様性は想像を絶します。
なぜ生物の多様性はこんなにも豊かなのでしょうか。それは生物がそれだけ長い時間をかけて多様性を発展させてきたからにほかなりません。
生物多様性の歴史
未知のものも含めると約3000万種とも予測される生物ですが、進化の歴史をたどればたったの三つの枠に行きつくと考えられています。
その三つの枠とは、哺乳類・鳥類・魚類、ではなく、脊椎動物・昆虫・植物、でもありません。
これらは真核生物(DNAなどの遺伝物質が膜で包まれた核をもつ生物)というたった一つの枠に収まります。
つまり人類皆兄弟は当たり前で、その辺に生えている木も草も、道をはっているアリもダンゴムシも、絶滅してしまった恐竜も、みんな遠い遠い親戚になります。
そして残る二つの枠は、細菌(バクテリア:乳酸菌、大腸菌など)と古細菌(アーキア:メタン菌、好熱菌など)という原核生物(核が膜で包まれていない生物)=単細胞生物です。
さらに、真核生物・細菌・古細菌も最初は一つの生物「ルカ」【LUCA :Last Universal Common Ancestor(最終共通祖先)】であったと考えられています。
地球が誕生したのは今から約46億年前、そこに生物は存在していませんでした。
はじめての生物「ルカ」が誕生したのは、地球ができてから約8億年後、深海にある熱水噴出孔のようなところだったと考えられています。
これはとんでもない奇跡のようにも思われます。現在の科学技術をもってしても、生物をゼロからつくりだすことは不可能です。
生物の定義はいろいろですありますが、多くの生物学者が認めているのは以下の三つの条件をすべて満たすもの、①外界と膜で仕切られ、②代謝をおこない(エネルギーの流れをつくる)、③自分の複製をつくる、です。
それが当時の地球環境にある物質だけを材料に(既に生物のもとになる有機物はあったと考えられています)、自然のエネルギーだけを利用して、現在まで約40憶年間続くすべての生き物の基本性質をもつ生物が誕生した、というのですから驚きです。
そして今から約20億年前までに、原核生物から真核生物へ進化した生物が誕生したと考えられています。
生物の進化の中で1番苦労したのがこの段階で、なにしろ原核生物が誕生してから15億年ほど時間がかかっています。
最初の生物が誕生するまでにかかった時間が8億年ほどですからその約2倍です。
この進化には地球全体が氷に覆われる(全球凍結)ほどの寒冷期があったことが関係しているとされる説があります(スノーボールアース仮説)。
真核生物の誕生は現在の地球環境を考える上で非常に重要です。
まず真核生物は遺伝子情報をもつ核が膜によって包まれているため、より多く、そしてより複雑な遺伝子情報を安定してストックさせておくことができます。
これは後に有性生殖をおこなう生物が現れたときにとても役に立ちます。
また、真核生物は原核生物と比べて細胞のサイズを大きくすることができるようになりました。そのサイズは原核生物よりも直径が約10倍、体積にすると約100~1万倍もの大きさです(それでも0.01~0.1mmほど)。
つまり細胞のサイズに多様性が生まれたのです。細胞のサイズが多様化した結果、真核生物は細胞の機能を多様化させることが可能になりました。
今から約10億年前になると多細胞生物が誕生します。
多細胞生物ではいくつもの特別な機能に特化した多様な細胞をもつことが可能になるため、ここで一気に生物進化の可能性が広がりました(今を生きるヒトの体の細胞は約200種37兆個といわれています)。
ちなみに、真核生物の誕生(初期は真核細胞一つだけの単細胞生物)から多細胞化までの道のりも約10億年と気が遠くなるような時間がかかっています。
ヒトがサルから分岐してから約700万年、現生人類が誕生してから約20万しか経っていないことを考えると、その進化がどれだけたいへんだったのかがわかります。
この多細胞生物の誕生後、生物の多様性は加速度的に増していきます。
生物の性質に違いが生まれたことでさらに複雑な違いが生まれ、それが繰り返されていく、多様性が多様性を生みだし続ける展開です。
そして約5億4千万年前にカンブリア紀という時代がはじまると、生物の数は爆発的に増えました(これはカンブリア紀以降に化石記録が急に増えたことから明らかになっています)。
その増え方は数十種類から1万種ほどへの爆発的増加で、現在生きるすべての生物たちのボディプラン(基本構造)をもつ祖先がでそろったとされています。
あまりにも大きな変化からこの現象は「カンブリア大爆発」とよばれており、まさに生物多様性の大爆発でもありました(遺伝的な多様性の爆発はこの時代より前にはじまっていたともいわれています)。
さらに5億年前頃になると、とうとう生物は陸上に進出するという大イベントを成功させます。
現在陸上で生活している私たちからすれば陸上への進出は簡単な出来事のように思われますが、その頃の生物はそれまでの約35億年間を水中だけで生活してきたのであり、陸上はまったく未知の場所で危険に満ちた世界でした。
今の人類が地球外の惑星に進出するのがどれほど困難かを考えれば、この出来事の意味がよくわかります。
そして今日、陸上で繁栄しているのは植物と節足動物、脊椎動物の三つです。私たちはその中の一種であるヒトとして今を生きています。
ヒトとして生まれたのがいいのか悪いのかはわかりませんが、生きているという一つの事実には生物誕生以来約40億年の進化の歴史がつめこまれていて、それはとても貴重なことのように思われます。
何度もあった生物多様性消滅の危機
40億年におよぶ進化の歴史の中で、生物はなんと5回も大量絶滅を経験しています【大量絶滅:短期間(地質学的には100万年以内)で、世界同時的に多数の生物種が消え去ること】。
その規模は1回の絶滅ごとに全生物種の70~95%が消滅するほど…、これまでに地球で生まれた種はほとんど現代に生きていないのです。
原因としては白亜紀に栄えた恐竜を絶滅させた巨大隕石の衝突が有名ですが、基本的に生物を絶滅させるのは地球です。
環境の変化や火山の大噴火による気候変動により、生物はなすすべなく絶滅してきました。地球は生物を育むためだけにあるわけではありません。
それでも生物は100%絶滅してしまう不運には見舞われませんでした。それは生物に多様性があったからです。
地球上のさまざまな場所、さまざまな環境に適応している種が散らばっているからこそ、必ず生き延びる種が存在します。
そして生き残った種はたくましく繁栄・進化を続け、数千万年から1億年ほどの時間をかけて何度でも多様性を復活させます。
その結果、今日の生物多様性は地球はじまって以来の豊かさだとわれています。
最初は一つであった生物、それに少しずつ違いが生まれることで現在の生物多様性にあふれる世界ができあがりました。
違いがあるということはそれだけ素晴らしいことなのです。
そしてその多様性の一部として、私たちは今ここに存在し日々の生活を送っています。
このシンプルな事実こそ、生物の多様性のかけがえのない価値だといえます。
生物多様性ー「私」から考える進化・遺伝・生態系(中公新書)
若い読者に贈る美しい生物学講義ー感動する生命のはなし
構成物の多様性
前節では生物の多様性について見てきましたが、そもそもなぜ生物は存在できるのでしょうか。
また生物を育む海や大陸、空気や大気などの環境が存在しているのはなぜでしょう。
何かが存在しているのは当たり前すぎて普段意識することもありませんが、それはそのものの形をつくる構成物があるからです。
そしてそこにはやはり、多様性の力がひそんでいます。
生物を構成する細胞の多様性
生物がどのように存在しているのか、人間を例に見ていくとそこには体があって、その中に心臓や脳などの臓器があります。
さらに深く見ていくと、体や心臓などの臓器はすべて小さな細胞から成り立っています。
この細胞こそが全生物の基本的な構成単位ですが、人間の体はおよそ200種37兆個もの細胞から成り立っているといわれています。
普段なに気なく生きている私たちですが、これだけの数の細胞一つ一つが多様な役割を果たしてくれているのです。
おかげで私たちはこの世界で、さまざま色を目で見わけ、豊かな音を耳で聞き、たくさんの食べ物を舌で味わい、物事を考え人との会話を楽しみ、遠い目的地に向かって足を運ぶ、そういう人生を送ることができます。
たった一つの細胞だけで生きるアメーバなどの単細胞生物の世界を想像すると、細胞の多様性にあふれた生活のありがたみがわかります(単細胞生物の世界、それはそれで多様性に富んでいます)。
世界を形づくる原子の多様性
生物の基本的な構成単位である細胞は水や脂質、アミノ酸など分子レベルの小さい単位の材料で構成され、細胞の分子は酸素や炭素、水素、窒素などの原子で構成されています。
原子とは、生物だけではなく私たちが認識できるあらゆるものを形づくる極小レベルの構成単位です。
動物や昆虫や草木などの生物、建物やスマホやパソコンやテレビといった物質、海や大地や空気といった環境、この地球自体も共通の単位である原子で構成されています。
そしてこの原子はもちろんのこと、多様性に富んでいます。
原子は現在118種類の存在が確認されています。
学校で習った元素周期表、その最新版には原子番号1番のH(水素)から118番のOg(オガネソン)までの元素が記載されています(2020年12月現在)。
(原子なのか元素なのかややこしいですが、原子は物質を構成している一つの粒子、元素は原子の種類、と簡単に解釈します。)
その中でも地球上に存在する物質から発見された元素は天然元素とよばれ、H(水素)、C(炭素)、O(酸素)、Fe(鉄)、U(ウラン)など約80種類が存在しています。
たった80種類の多様性とはずいぶん貧相な感じもしますが、それでも地球上にあるものはすべて天然元素から構成されており、その事実を考えると原子の多様性がいかに素晴らしいかがわかります。
その他の元素は人工元素とよばれており、文字通り人工的につくりだされた元素です。元素周期表の最後118番にあるOg(オガネソン)など35種類ほどは人工元素です(人工元素は私たちの生活にあまり関係しませんが、科学的な価値が高いため研究が続けられています)。
原子に多様性があることは当たり前のように感じられますが、じつはこの宇宙には原子の多様性が存在しない時代があったと考えられています。
それは宇宙が誕生して間もないころにまでさかのぼります。
最先端の科学によると、宇宙は今から約138億年前にはじまったと考えられています。つまり宇宙には誕生の瞬間があったということです。
なぜそのように考えられるのか、さまざまな理論がありますが、単純な事実として「地球から遠くにある銀河ほど速いスピードで遠ざかっている」ことが観測されているからです。
すなわち宇宙は膨張しており、その膨張速度から逆算すると宇宙が誕生した時期として138億年前という数字がでてきます。
本当に宇宙に誕生の瞬間などあったのか、実際に確認する方法はありませんが、こういう認識は「ビッグバン・モデル」とよばれ、さまざまな観測結果から広く受け入れられています。
ビッグバンとは、爆発的な空間の膨張により誕生した灼熱の宇宙を意味します。
そして、宇宙が誕生したころの様子は計算によってかなりのことがわかってきています。
宇宙が誕生したころ、原子は多様性どころかまだ一つとして存在していませんでした。
そこにあったのは陽子や中性子や電子という原子の材料になる小さな小さな粒子、光、膨張し続ける灼熱の空間です。
ビッグバン時点の宇宙の温度は1兆度以上もあり、1秒後に100億度、100秒後には10億度に下がったのではないかと考えられています。
想像を絶する世界です…
これほどまでに熱い状態では、原子の材料になる粒子と粒子がくっついて原子をつくることができません。
水を例にとればわかりやすいですが、水は100度以上では水蒸気、それが冷えて水になり、0度以下になると氷になります。
つまり温度が高いと水をつくる粒子が暴れまわるため気体(水蒸気)となってしまい、冷えてくると粒子がおとなしくなって液体(水)となり、やがて固まって個体(氷)になります。
原子も同じです。
温度が高すぎると、原子をつくる材料の粒子が激しく暴れまわり原子という形になりません。
その粒子がおとなしくなって原子をつくりはじめる温度は約3000度、ここまで宇宙の温度が下がるのに約37万年もの時間がかかったと推測されています(現在の宇宙で温度が一番低いところはマイナス270度にもなります)。
宇宙誕生のおよそ37万年後にやっと現れた原子はしかし、水素とヘリウム、それにごく少量のリチウムくらいでした。
このほとんど水素とヘリウムのガス(気体)だけが漂う宇宙は、そのあと膨張するだけで何の変化もないまま1~3億年も続いたと考えられており、その期間は「宇宙の暗黒時代」とよばれています。
現在では無数の星が輝くこの宇宙に、恒星も惑星も、ましてや岩石やチリひとつさえも存在しなかった時代があったというのですから驚きです。
しかし、ここからの宇宙は原子の多様性が生まれるとともに物質的な多様性を獲得していきます。そのきっかけとなるのは、ファーストスターの誕生とその大爆発です。
宇宙の暗黒時代にはほとんど何も物質が存在しませんでしたが、それでも目に見えないほど小さな原子である水素とヘリウムはガス(気体)となって、しかもその分布にわずかな偏り(かたより)をもって存在していました。
質量をもった物質が存在すればそこには重力が発生し、その分布に差があれば重力の強いところと弱いところの違いが生じます。
その結果、水素とヘリウムのガスは重力の強いところに集まってさらに重力が強くなり、より多くのガスを集めて少しずつ大きなかたまりへと成長していきます。
水素とヘリウムのガスのかたまりはおよそ3億年もの時間をかけて、太陽より数十倍も巨大な恒星「ファーストスター(第一世代の恒星)」へと成長していきました。
宇宙にはじめての天体が誕生したことになりますが、このファーストスターは一つだけではありません。宇宙にたくさんのファーストスターが誕生し、ここに宇宙の暗黒時代は終わりを迎えます。
ファーストスターの誕生は、現代の私たちにとっても特別な意味があります。
恒星とよばれる太陽のような自ら光かがやく巨大な星は非常に強い重力をもっており、その星の中心部では原子の核と核がくっついて一つになる特別な現象、核融合反応が起こります。
核融合反応は軽い原子同士から重い原子を新しくつくりだす反応であり、つまり原子の多様性を生みだす反応です。
太陽ほどの大きさの恒星は水素からヘリウムしかつくりだすことができませんが、太陽の数十倍もの質量があるファーストスターでは、水素からヘリウム、炭素、酸素、鉄など重い元素が合成されていきました。
そして、ファーストスターは誕生から約300万年後、星の寿命を迎え超新星爆発という大爆発を起こし、新しくつくられた元素は宇宙にバラまかれます。
超新星爆発のエネルギーはすさまじく、ファーストスター自身ではつくることができなかった鉄よりも重い元素のコバルトやニッケル、銅、亜鉛などを合成(超新星元素合成)し同時に宇宙へ飛散させます。
また、超新星爆発のあとにはブラックホールや中性子星といった特別な天体が誕生すると考えられていますが、中性子星が二つの連星となり、それが衝突・合体すると、金や銀、プラチナ、鉛、レアアース、ウランなどさらに重たい元素が合成されると考えられています。
こうして多様性を獲得した原子が宇宙に散らばりました。
そして散らばった元素から第2世代以降の恒星がつくられ、そこでも元素が生成され、やがて爆発とともに宇宙に放出される、というサイクルが繰り返されます。
私たちの太陽には水素やヘリウムよりも重い元素が2%ほど含まれており、当然ですが第2世代以降の恒星であるとわかります。
原子の多様性を獲得した宇宙では氷や石からなる小さなチリが生成され、たくさんのチリとチリがくっつき岩石が生まれ、岩石と岩石が集まってやがては惑星を誕生させます。
その中の一つに物質的な多様性に満ちた星、私たちの住む地球がありました。
地球には80種類ほどの天然元素が存在すると前述しましたが、これらの元素はすべて宇宙のさまざま恒星でつくられたのです。
それはすなわち、私たちの体を含め目の前に広がる景色のすべては、太古の恒星ファーストスターを含むさまざまな恒星のかけらでできているということです。
私たちを形づくる原子の一つ一つは、宇宙のどこかで星の誕生からその死である超新星爆発を経験しているのです。
以上、構成物の多様性として生物の基本単位である細胞と、その奥にある生物を含めたあらゆる物質の構成単位である原子の多様性を見てきました。
まさに世界は違いがあるものがあるからこそ成り立っています。
当たり前といえば当たり前の話ですが、じつはこの世界に多様性を生む何かが存在している理由は最先端の科学でもまだわかっていません。
なぜ原子の材料となる陽子や中性子、電子が存在していたのか、なぜ生まれた原子が多様性を獲得するための物理的な法則が存在しているのか、なぜこの世の入れ物である宇宙が存在しているのか、さまざまな問いが存在します。
すべては存在するべくして存在しているのか、それともただの偶然、確率の問題なのか、一切の謎です。
その謎に迫る理論として相対性理論や量子力学、超ひも理論、無境界仮説、ホログラフィー原理といったさまざまな理論がありますが、はっきりしたことはまだわかっていません。
私たちがなぜ存在しているのかわかっていない、考えると怖い話でもありますが、だからこそ、構成物の多様性に満ちたこの世界には価値があるのです。
はたらく細胞(1)(シリウスコミックス)
Newton別冊『138億年の大宇宙 改訂第2版』
宇宙の多様性
私たちは広大な宇宙の片隅の、地球という小さな惑星で、生物と物質の多様性にあふれた世界を生きています。
日常生活を送る中でそんな当たり前のことは気にもしませんが、ふと夜空を見上げたとき、そこに輝く星々や、それらを包みこむまっ暗な空間をまえに、だれもが宇宙の壮大さについて思いをめぐらせた経験があるのではないでしょうか。
宇宙にはいったいどれくらいの星があるのだろう、どこかの星に私たちのような生命はいるのか、どこまで続いていてその先はどうなっているのか、いつからそこにあっていつまであり続けるのか。
そして、宇宙はたった一つしか存在しないのだろうか。
宇宙の成り立ちにせまるインフレーション理論
この宇宙は最先端の科学をもってしてもまだわからないことだらけです。
ですがそれを解明しようとする理論はいくつもあり、その中でも多くの科学者に支持される有力なものとして「インフレーション理論」があります。
インフレーション理論は、前節でも触れたビッグバン(爆発的な空間の膨張により誕生した灼熱の宇宙)の前に、ビッグバンをはるかに上回る加速度的な急膨張がおきたとする理論です。
インフレーション理論では、宇宙は誕生した直後から10-34秒(0.0000000000000000000000000000000001秒)ほどで大きさが1043倍(1兆倍の1兆倍の1兆倍以上の膨張、それでも原子よりもはるかに小さい極小の空間が直径1㎝以上になるくらい)ほどにもなった考えられています…(もはや意味もわかりませんが、理論として成立しているそうなので気にせず話を進めます)。
このインフレーション理論が提唱されたのは1981年のこと(提唱したのは日本の宇宙物理学者、佐藤勝彦博士)で、それから現在に至るまでの約30年間さまざまな観測がなされてきましたが、今のところ理論と矛盾する結果は得られていません。
また、インフレーション理論はこの宇宙の特徴をうまく説明できる現状でほぼ唯一の理論であるともいわれています。
インフレーション理論とマルチバース
宇宙の成り立ちを説明するインフレーション理論からは、ある驚きの可能性を導くことができます。それは私たちの宇宙が唯一の宇宙ではないという可能性です。
というよりむしろ、インフレーション理論では宇宙が一つしかないと考えるほうが難しく、インフレーションによって私たちの宇宙とは違う別の宇宙も誕生し続けている、と考えるのが自然です。
つまり、宇宙そのものにも多様性がある、ということです。
この多様性ある宇宙は「ユニバース(一つの宇宙)」に対して「マルチバース(多数の宇宙)」とよばれています。
宇宙にすら多様性があるという根拠の一つとして、この宇宙が私たちにとって都合よくできすぎている、ことがあげられます。
なぜ宇宙は誕生したのか、なぜ宇宙は誕生とともに私たちに都合のよい速度で膨張したのか、なぜ多様性にあふれる世界をつくるだけの材料(原子や原子のもととなる粒子など)が用意されていたのか、なぜ物理法則が今ある形になっているのか、なぜ、なぜ、なぜ。
こういった「なぜ」に対する理論は数多くありますが、今のところ人類は答えをだせていません。
むしろ科学的には、宇宙は誕生した瞬間につぶれて消えてしまう、逆に膨張速度が速すぎてすべてがバラバラになり物質が存在しない、原子が誕生しても多様性を獲得しない、私たち人間のような知的生命体が存在しえない物理法則をもつ、のが自然だそうです。
ですが宇宙がマルチバース(多宇宙)なら、答えはシンプルです。
「単にそのような宇宙に我々が住んでいるのだから、そのようになっているのは当然である」。
このような考え方は「人間原理」とよばれています。人間原理は何も説明していないのと同じで、科学ではないとみなされることもあります。
しかし、現代科学の究極理論の候補である「超ひも理論」によって、宇宙のパターンは10500個(1の後に0が500個も並びます!)も存在すると予想されてしまいました。
この予想が正しければ、私たちは無数の可能性の中から選ばれた一つの宇宙に偶然存在しているにすぎないことになります。
ちなみに超ひも理論とは、原子や光を含めあらゆるものの最小構成単位は長さ10-34メートルほどの1秒間に1042回以上振動する極小の「ひも」であるとする仮説で、しかもこの理論は世界が9次元空間であることを要求しています(私たちの住む世界は3次元空間で、残りの6次元は小さく丸まっているため認識できません)。
とんでもない話ですね…。
マルチバース、つまり私たちの宇宙とは違う宇宙の存在は観測によって証明できないとされているため、宇宙の多様性が本当にあるのかはわかりません。
それでも、理論的には宇宙にも多様性があると考えたほうが自然なようです。
宇宙に多様性があるのならば、この世界は本当の意味で多様性によって支えられています。
そしてその多様性の価値は、私たちの考えがおよばないほど貴重なものであるようです。
3章まとめ
私たちがヒトとして生きているのは、地球誕生以来46億年の歴史が獲得した生物の多様性のおかげですし、生物が誕生したのは宇宙誕生138億年の歴史の中で蓄積された原子という構成物の多様性のおかげです。
さらにこの宇宙が生物誕生に都合のよい物理法則になっているのは、いつから続いているかもわからない宇宙の多様性のおかげかもしれません。
すべては多様性の上に成り立っていて、すべては多様性の一部なのです。
Newton別冊『ゼロからわかる宇宙論』
Newtonライト『超ひも理論』
④多様性に対する誤解
多様性(ダイバーシティ)は、多くの場合よい性質だけをもった尊重されるべきものとして語られます。
多様性を否定することは許されない、そんな雰囲気すらつくられています。まるで多様性を尊重しあえば世の中は平和で暮らしやすいものになる、と言わんばかりです。
本当にそうでしょうか。多様性を尊重しない、という多様な意見は認められないのでしょうか。
「多様性を多様性によって否定する」これは自己言及のパラドクス(矛盾)になっており、無限ループしてしまうので考え方として成立しません。
しかし、多様性を尊重しない「価値に対する否定的な意見」は「さまざまな意見や価値観」という多様性の範囲内におさまります。
重要なのは、多様性のさまざまな性質とどう向き合うかです。
第1章で見た多様性の力(十人十色、成長、個性形成の力)は、多くの人が尊重するべきだと考えるでしょう。
人は一人で生きていけず、十人十色の力を発揮しないとほとんど何も解決できません。
また、多様な人との出会いや経験から多くの学びと成長がもたらされます。
そして自分自身も多様性の一部として世の中に影響をあたえていきます。
しかし、このような考え方は受け入れられない、多様性を尊重するなどバカバカしい、という反論はもちろんあります。
多様性を尊重すること自体が目的となってしまい、仲よしごっこの慣れ合いに終始して目的を達せられない状況もあります。
こういう状況では皆を平等に扱うことが重視されるあまり、リーダーシップを発揮できる個性や高い能力をもつ個性が埋もれてしまいます。
第2章で取り上げた多様性の反社会的な性質には、だれもが拒否反応を示すはずです。
自分に害をあたえてくる者や環境に対して、それも多様性の一部だと尊重するのは並大抵のことではありません。
そういったものをあえて尊重することなどせずに、距離を置いたほうが賢明です。
しかし、反社会的な性質に前向きな反応を示す人たちもいます。
自分の利益だけを考え、無秩序を好み、法や治安を守る政府や警察などの組織を忌み嫌う人たちも実際に存在します。
一方で、反社会的な性質を含むのが個人や社会だとあえて認めることで、それと共存し、または対抗する個性も存在します。
第3章でテーマにした人間社会と関係のない多様性(生物、構成物、宇宙の多様性)は、普段の生活との関係を意識することがあまりないため、一般的には興味をもたれることもないかもしれません。
それでも、私たちの生活は生物多様性が育んだ生態系から衣食住のほとんどやエネルギーをもらうことで成り立っています。
しかし現在の生物多様性は急速に失われつつあり、そのペースは年に数百から数千種の生物が絶滅するほどと推測されています。
生物は誕生と絶滅を繰り返すものですが、これは今までの自然環境ではあり得ない速さです。
これを引き起こしているのは私たち人間だといわれています。
人は生きるために食料と資源を追い求め、世界中で山や森林を切り開き、海や川を埋め立て、環境と生態系をどんどん破壊し、生物を殺し、絶滅させていきます。
このような行為は現生人類が誕生した20万年前からずっと繰り返されています。
私たちが住んでいる場所はすべて、かつては他の生態系が栄えていた場所です。
こういった事実に焦点を当て、人類は生物の多様性を尊重して発展の歩みを止めなければならない、という意見もでてきます。
それとは逆に、推定でしか測れない絶滅数では具体性が無い、そもそも生物種が全体の数%減ったところで何の問題もない、という意見もでてくるでしょう。
生物多様性を守ろうとする運動などはたしかにありますが、それは人間が豊かに暮らすための環境を守ることであり、それ以上のことはできません。
本気で生物多様性を守るために人類全体で誕生の地であるアフリカ大陸にひっこんで、今さら環境と共存する生活をしようとしても手遅れですし、そんなことは不可能です。
たとえそれを実行したとしても、アフリカ大陸の自然豊かな生態系が破壊しつくされるだけでしょう。
そもそも生物多様性が人類を誕生させたのであり、ヒトも生物多様性の一部です。
何かの拍子に絶滅するか、脅威となる種の誕生によって淘汰されないかぎり、ヒトは人として懸命に生きていくでしょう。
それに視点を変えてみれば、人類の歩みは地球にすむ全生命体レベルの「種の保存」の法則にかなっているという見方もできます。
なにしろこの地球に住む生物は、いつの日か消滅する太陽と共にすべて消えうせることが確定しています(太陽の寿命は残り約50億年)。
地球に住む生命体が種の保存を実行し続けるには、いずれかの生物が太陽系の外に脱出する必要があります。
これは生物にとって初めて陸上へ進出をしたこと以来の大イベントとなります。
それを成すのがヒトである必要はありませんが、今のところ私たち人類は文明を築き、この世の理(ことわり)を解明するための科学を手に入れ、宇宙へ乗り出すところまではきています。
いつの日かヒトが太陽系外に住める星を見つけることができれば、ヒトとヒト一人につき数千種数百兆匹共存している細菌とともに、移住先の星の環境によっては食糧確保のための農作物や家畜、それを維持するための植物や昆虫や動物を、それらに付随する膨大な数の微生物とともに運び(もしくは遺伝子情報から再現などして)、多くの地球に住む生物の種が保存されることになります。
それができなければすべて絶滅、地球生物の多様性が0になるだけです。
この地球に生まれた生物の一員として、ヒトでも他の種でも何でもいいので、何かがこの素晴らしい多様性を残す道を見つけてくれることを願わずにはいられません(その後には、いつか消滅するかもしれないこの宇宙からの脱出という、想像を絶するほどの難関が待ち受けていますが…あと1400億年は大丈夫とされています)。
そして、細胞や原子といった構成物、宇宙そのものの多様性にいたっては、尊重するとかしないとかのレベルの話ではなくなってきます。
以上のように、多様性を尊重するかしないか、またはどのように折り合いをつけるかはケースバイケースであり、個人個人の考え方や価値観によります。
つまりは意見にも多様性がある、という当然の結果に行きつきます。
そもそも何かを尊重すれば何かが尊重されなくなるのであり、すべてを尊重することは実現不可能です。
それでも、すべてが多様性の手のひらの上にあるこの世界で、多様性自体を否定することはできないでしょう。
多様性はその価値を認められようが否定されようがそこに存在しています。
ただただ違いがあるのみです。
***
多様性の価値、それにはさまざまな面があり、そのどれもが非常に複雑なものです。ここで紹介したこと以外にも、数かぎりない多様性が世の中にあふれています。
結局、多様性の価値とは「違いがあること」の一言につきます。
しかしこの言葉には、一言ではとうてい表現できないほどの、多様な意味がこめられているのです。
参考資料
内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える (講談社+α文庫)
FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
いじめの構造-なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)
いじめを生む教室-子どもを守るために知っておきたいデータと知識(PHP新書)
パーソナリティ障害がわかる本:「障害」を「個性」に変えるために(ちくま文庫)
サイコパス (文春新書)
生物多様性-「私」から考える進化・遺伝・生態系 (中公新書)
若い読者に贈る美しい生物学講義-感動する生命のはなし
はたらく細胞(1) (シリウスコミックス)
Newton別冊『138億年の大宇宙 改訂第2版』
Newton別冊『ゼロからわかる宇宙論』
Newtonライト『超ひも理論』