経験と記憶の混同、そして置き換え
経験:実際に見たり聞いたり実行したりすること
記憶:ものごとを覚えていること
上記のように、経験と記憶はまったくの別物ですが、人間にそれを認識するのは難しく、私たちは経験と記憶を同じもののように扱ってしまいます。
例えば、友人と一日楽しく遊んだ帰り道、些細なことでケンカをしてしまったとします。
そのとき、お互いに「せっかく楽しんでいたのに台無しになった」と思ったりしますが、このとき台無しになったのは、その日の出来事を後から思い出す記憶だけです。
いっぽう経験としては、最後の最後をのぞいてほとんど完璧な一日を満喫したのであり、最後が悪かったからといってすでにおきた経験まで台無しになったわけではありません。
それなのに、私たちは悪いことが一つおこっただけで、その日の経験全体の評価を下げてしまいます。
これは経験と記憶の置き換えです。
この置き換えがあるため、私たちはすでに終わった経験も後から起こる悪いことの影響を受ける、と錯覚してしまいます。
純粋な経験
経験と記憶の置き換えは強力な認知的錯覚です。
上記の友達とのケンカといった例のほかにも、恋人との破局や結婚生活の破綻、仲間との離別、事業の失敗、挑戦の挫折、などなど、最後がダメだったからといってそれまでの経験すべてが悪いことであったかのように錯覚してしまうケースはいくらでもあります。
しかし、本当はそうではありません。
それまでの経験はそれまでどおり、何ら変わることなくそこに存在し続けています。
経験というのは、純粋な意味ではその瞬間瞬間におこる単純な事実の積み重ねです。
そこに人の思いや評価が入り込む余地はありません。
つまり、思い出(記憶)に後から傷がつくことはあっても、経験に後から傷がつくことなどないのです。
より豊かな人生を
経験と記憶は別物、とはいっても、実際には経験と記憶を切り離して考えるのは難しいことです。
なぜなら、いままで経験したことについて考えるとき、その経験は必然的に脳内の記憶から取り出されるからです。
つまり、経験はつねに感情をともなった記憶とセットで呼び出されます。
さらにやっかいなことに、記憶には虚記憶というウソの情報も混じるため、記憶によって呼び出された経験が本当に経験したことなのかさえ正直なところ分かりません。
それでも私たちは、今まさにこの瞬間まで、生まれたその時からの連続したさまざまな純粋な経験と一つにつながっています。
その意味を理解し、これまでに何を経験してきたのかを冷静に見つめ直せば、きっと今までの人生が色あざやかによみがえってくるはずです。
その結果、人生の彩りは増し、さらにそれがより豊かな人生に繋がっていく、なんてことも期待できるかもしれません。
参考:ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?
善の研究
Newton別冊『ゼロからわかる心理学』