私たちは日々何かを選んでいます。
朝食を食べるか食べないか、食べるならご飯にするかパンにするか、
学校や職場ではだれと何の話をするか、家に帰ってどのテレビをみるか、ゲームをするか、勉強するか仕事をするか、
SNSをチェックするかしないか、イイネするかリプライするか投稿するか、寝るかまだ起きておくか、
休日は家で過ごすか出かけるか、だれを誘いどこに行き、どの店で何を買うか、ランチはどこで何を食べるか・・・。
このように何気なく過ごす日常は選択の連続です。
そして、選択ができるというのは自由であることでもあります。
ですが、選択することが多すぎて疲れてしまうことはありませんか?
選択肢と自由
私たちは選択することが大好きです。
選択ができない、まったく自由がない世界なんてぞっとします。
幸い私たちの生きる社会は選択することが可能で、選択肢は増えれば増えるほど自由度は増していきます。
そして現在のインターネットによってすべてが繋がった世界では、かつてないほどの選択肢が私たちの前に用意されていて、結果的に私たちはかつてないほど自由になりました。
おかげで私たちはストレスをかかえ、疲れてしまうのです。
選択と後悔
選択をするというのは、何を選んで何を選ばないかを決断をすることです。
選択肢が膨大に増えた現代社会においては、この決断がとても難しくなります。
選択肢が多すぎて何を選んでいいのかわかりません。
無数にある選択肢の一つ一つを比較検討するのは不可能です。ですがその中には最善の選択肢があるはずなのです。
それが何かわからないまま、私たちは何度も何度も決断をしなければなりません。
実際には、私たちはすべての選択肢について考えることはなく、最善の選択肢にたどり着くこともありません。
私たちにできるのは、自分にとって満足のいく答えを探すことだけです。
そして基本的に、私たちは選んだ答えに満足しています。
それと同時に私たちは後悔もします。
もっといいものを選べたはずなのに、あっちを選んでいたら今頃は、などと選ばなかった選択肢のよいところを想像してしまうのです。
たとえよい決断をしていたとしても、自分を責める結果になります。
昔は今ほど選択することは多くありませんでした。
地元の学び舎に通い、先祖代々の仕事に就き、親が選んだお見合い相手と結婚し、子どもを産み、子どもはまた親と同じような人生を歩んでいく。
ほとんどのことはすでに決定されており、そもそも選択する必要がありませんでした。
現在ではすべてが自分の責任になります。それは自分で選択したからです。
どの学校を目指し、どの仕事に就き、何を求め、結婚するのかしないのか、するならだれと、子どもをつくるかどうか、どこに住むのか、無数の選択肢の中から選ばなければなりません。
しかも手元にはいつでもスマートフォンがあって、いつでも私たちを無限の可能性に満ちた外の世界につないでいます。
心安らぐ暇はありません。
最善の選択などない
つねに私たちに無数の選択をせまる世界を生き抜くコツは、最善の選択などないと理解することです。
間違うことは当然ですし、妥協も悪いことではありません。それでも後悔するのは仕方がありません。みんな何かを後悔しています。
世の中は私たちが後悔するようにできているのです。ひとしきり後悔したら、自分を許してあげましょう。
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「後悔先に立たず」といいます。
終わったことを後から悔(く)やんでも取り返しがつかないという意味です。
後から悔やむと書いて後悔ですので当たり前ですが、「後悔先に立たず」には何かを選択する前に十分考えよという意味もあります。
しかし人は結局、何かを選択して後悔するよりも、何も選択しなかったことを後悔しがちです。
私たちは選択することから逃れることはできません。
ならばせめて前向きに、思い切って何かを選択することも必要です。
参考:なぜ選ぶたびに後悔するのか-「選択の自由」の落とし穴
行動意思決定論-バイアスの罠
残酷すぎる成功法則