合理性は限定される
私たちはものごとを判断するとき、合理的な判断をしようと心掛けるものです。
合理的な判断とは、理にかなっていて間違いや無駄がないような判断のことをいいますが、しかし、私たちにとって合理的な判断をするのは非常に難しいことでもあります。
なぜなら、いくら合理的な判断をしようとしても、その判断の元になる私たちの知識は、当然ながらその人のもつ知識量に限定されるからです。
そのため、どんな合理的に見える判断にも、何かしらの見落としがつきものです。
そして、その見落としたことについての知識がそもそもないため、通常は見落としに気づくこともありません。
仮に人類の全知識を有する人間がいたとしても、結局その知識は人類が知り得た知識に限定されています。
つまり、私たちの判断に関する合理性はつねに限定されている、ということです。
それに、人間は勘違いや思いこみを頻繁にすることもわかっています。
限定された合理性でさえ、私たちが持ち合わせるのは非常に困難なようです。
合理的な判断に固執しては何もできない
私たちの判断における合理性は、知識のほかにも情報や時間、能力など、さまざまのものの制約を受け、限定されます。
それにも関わらず、私たちは合理的な判断をしようと固執するあまり、「あーでもない、こーでもない」と考えて、身動きが取れなくなってしまうこともあります。
そして考えれば考えるほど、ますます判断するのを躊躇するようになっていくのです。
重大な意味をもつ判断であればあるほど、決断を躊躇してしまうのは当然ですし、浅はかな考えで不合理としか言いようがない判断をするのも問題です。
しかし、いくら考えても真に合理的な判断などできません。
合理性は限定されているのです。
それならば、ある程度のところで判断をくだす勇気も必要です。